日本列島改造論

田中角栄

というワードを耳にしたことはありますか?

これは戦後の日本を知るうえで欠かせないキーワードです。

「日本列島改造論」

を知れば日本の今の状態を理解することにつながります。

「日本列島改造論」が日本にもたらした影響・・・

はたして失敗だったのか・・・

なぜ私たち日本人は税金ばかり払わなければならなくなってしまったのか?

「日本列島改造論」を知ればその答えが分かります。

日本列島改造論とは

かつて日本の総理大臣を務めた田中角栄が提唱した、

日本列島全体を再生するための改革のアイデアです。

田中角栄が自由民主党総裁選挙を翌月に控えた1972年に「日本列島改造論」を出版し、

政治家の著書としては異例の90万部を超えるベストセラーとなりました。

また、最近では「角栄ブーム」として、田中角栄について書かれた、

石原慎太郎氏の『天才』や、

実の娘田中真紀子氏の『父と私』などがベストセラーになっています。

田中角栄とは

田中角栄は、日本の政治家であり、1972年から1974年にかけて第40代総理大臣を務め、

日本の政治に大きな影響を与えた人物です。

様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤影の総理などと呼ばれ、

知識が豊富で、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」とも呼ばれていました。

新潟県刈羽郡の農家の次男として生まれ、

父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、極貧下の生活を送っていたため、

成績は優秀だったが、進学はせず最終学歴は「高小卒業」(今の中卒程度)。

卒業後は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めたのち、上京。

住み込みで井上工業で働きながら夜間で中央工学校夜間部土木科を卒業し、建築事務所に勤める。

その後独立し、「共栄建築事務所」を設立。

1938年徴兵されたが肺炎のため送還され、日本へ戻ってきて田中建築事務所を開設し、1943年事務所を改組して田中土建工業を設立。

1946年顧問であった代議士の要請がきっかけで衆議院総選挙に出馬し政界入り。

衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)就任を経て、

1972年から約2年間、内閣総理大臣(第64・65代)を務めました

田中角栄がなぜ日本列島改造論を提唱したのか

1960年代から1970年代にかけて、日本経済は高度経済成長期を迎え、世界の工業生産の約10%を占めるまでに成長しました。

一方で、この成長により、環境汚染や都市部の過密化などの社会問題が顕在化し、地方と都市圏の格差も拡大していました。

田中角栄は、新潟県の出身で、東京と地方の格差を是正したいと考えました。

豪雪地帯の貧困の解消は田中角栄の悲願でもありました。

日本列島改造論として、高速道路網、高速鉄道網などを駆使して全国の移動速度を大幅に高めることで、

都市部から地方へ向け工業再配置を促し、全国の格差解消を目指しました。

日本列島改造論の内容

「日本列島改造論」の具体的な内容をいくつか挙げてみます。

交通インフラの整備

1972年の日本は、地方の交通網が整備されていないため、地方の若者人口が都心に流入し、地方の人口が減少していました。

そのため、日本列島全体を新幹線、高速道路、本州四国連絡橋のような交通網で緊密に結び、

人口の動きを都心から地方へ動かそうと考えました。

工業の地方分散

当時の工業地帯は港がある太平洋ベルト地帯に集中していました。

太平洋ベルト地帯と比べると、裏日本や北日本、南九州と呼ばれていた、北海道、東北、北陸、九州などの地域とで発展が遅れていました。

そこで日本を南北に分けて、豪雪地帯である北を工業地帯、南を農業地帯にして効率的に日本を発展させる構想を掲げ、

港湾整備なども行いました。

エネルギー政策の転換

「日本列島改造論」では、電力事業における火力発電から原子力発電への転換についても言及していました。

石油を主要なエネルギー源としていた日本でしたが、日本は石油のほとんどを輸入に頼っていたため、

その後に起こる1973年の第四次中東戦争によるオイルショックにより、

エネルギー政策の転換を迫られ、田中角栄は、エネルギー政策の多角化を進めることを決断し、

原子力発電所を建設しました。

これによって、日本のエネルギー供給体制は多角化され、エネルギー安定供給が図られました

日本列島改造論の結果(成功と失敗)

「日本列島改造論」を実行したことにより、日本で起こったこととは・・・

日本経済の発展に大きな影響を与える

日本列島改造論に基づく政策改革は、日本経済の発展に大きな影響を与えました。

1970年代後半には、産業構造の転換が進み、自動車産業や電子産業などの輸出産業が急成長しました。

また、経済協力開発機構(OECD)への加盟や国際通貨基金(IMF)からの借款返済などにより、

国際社会からの信用も回復しました。

インフレ・地下高騰

政府が積極的な公共事業を進めたことで、資源や人材の過剰消費が起き、物価上昇(インフレ)を招く結果となりました。

列島改造論で開発の候補地に挙げられた地域や新幹線の停車駅の地域では、

投機家によって土地の買い占めが行われて不動産ブームが起き、地価が急激に上昇しました。

この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、

1973年(昭和48年)春頃には物価高が社会問題化しました。

経費が膨大、税金上がる

日本列島改造論により、高速道路、空港、港などの整備が進められ、結果として多くの国民が利用する公共インフラが整備されました。

しかし、高速道路や空港などの整備には、大規模な建設費用や維持管理費用が必要であり、

その財政的負担は大きく、その多くは国民が負担する税金で賄っています。

また過疎化により地方の赤字路線、赤字空港や港など維持困難な状況に陥っているところが多くあり、

更に財政を圧迫しています。

都市の過密化と地方の過疎化

交通インフラの整備により、人口の動きを都心から地方へ動かすことが目的でした。

しかし、それは地方の住民・人材・企業もまた大都市に流出しやすくなったことで、

東京一極集中と地方過疎化をより促進してしまいました。

日本にとって、首都の過密と地方の過疎は、当時よりも一層深刻な問題になっています。

分散しすぎてアジアの移動の拠点(ハブ)になれなかった

人口や工業地帯を地方分散させるため、空港や港を都心から地方へつくりました。

しかし、分散してしまったことにより、

当時はアジアの移動の拠点(ハブ)になっていた神戸港と羽田空港の拡大を妨げました。

このことにより今は、韓国の仁川空港と釜山港・シンガポール港がアジアの移動の拠点(ハブ)になっています。

まとめ

田中角栄による「日本列島改造論」を紐解くと、戦後の日本の動きが分かったのではないでしょうか。

日本列島改造論によるインフラ整備で、高速道路、新幹線や空港が地方都市にもあり、とても便利になり、地方の発展にもつながりました。

しかしながら、東京一極集中の促進、赤字路線等の財政の負担などマイナスの面も多々あります。

今の増税の背景にもこういったことが一部関わっているといえます。

資産形成をしていくうえで、このような背景を考慮して、今後の日本を見定めていく必要があります。

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